Focus on Cinema

ハリキにしやがれ! Vol.5 ~この5年間での 私的ベスト5は?~

映画祭のディレクターなので「上映したすべての作品がベスト!」としか言いようがありません。

ここからはオフレコでお願いします。ベスト5は、時と場合によって変化しますね。今日の気分でいえば、まず、クマーラン・メーナン監督の「ダンシング・ベル」かな。ささやかな暮らしの描き方もすばらしいのですが、ぼくが一番感心したのは、芸術は何のためにあるのかという難しい問いに、見事な解答を出してくれたことです。

それからショエーブ・マンスール監督の「神に誓って」でしょう。エンターテインメントでありながら、これほどイスラムの問題を深く掘り下げた作品はほかにちょっと見当たらないと思います。

アスガー・ファルハディ監督の「アバウト・エリ」は、イラン映画の新しい次元を切り開いたと思います。冒頭の、車に乗って叫んでいるシーンから、もう「ヤラレタ!」としか言いようがないほど魅了されました。

韓国系中国人のチャン・リュル監督の作品はどれも好きですが、「豆満江」を挙げておきましょう。本人は、あまり中国人には見えません。酒飲みで、毎晩飲んでいました。気がつくと、ボランティア・スタッフの部屋で何気なく一緒におにぎりをほおばっていたりします。映画祭が終わっても帰らず、スタッフの打ち上げのときも、居残って朝まで飲んでいたこともありましたっけ。

そのほか、ウズベキスタンの「天空の路」、トルコの「天使の墜落」「卵」、オーストラリアの「サムソンとデリラ」、インドの「オーム・シャンティ・オーム」、フィリピンの「どん底」、韓国の「GO GO 70S」…数えあげればキリがありませんけど。

Posted on

ハリキにしやがれ! Vol.4 ~アメリカ映画にはない、 アジア映画とは?~

おおざっぱに言いまして、アジア映画の魅力はどこにあるかといえば、欧米のドラマトゥルギー(ドラマの作り方)とは違っているところです。世界中で商業映画として流通している映画の作り方は、だいたいハリウッドで作り上げられた方程式に従っていると思います。それがけっして唯一、映画の作り方であるわけはないのですが、長い時間をかけて、それが心地よく感じるように慣らされてきたわけです。アカデミー賞や権威ある国際映画祭が欧米にしかないという事実によっても、価値づけは歴史的に作られてきたことがわかります。

ある時期から、国際映画祭で、アジアの作品が受賞するようになり、ヨーロッパの価値づけの中にアジアというものが織り込まれるようになりました。いい作品が欧米では作られなくなったことと、欧米以外でもすぐれた作品が作られるようになったこと、その作品群をほっとくわけにはいかなくなったこと、があります。ただ、あくまでも、価値づけするのは欧米なのです。アジアの映画祭で受賞しても、それほど付加価値はつかないのが現実です。

おおまかにいって、欧米の映画とちがうのは、人間と自然の関係の描き方かもしれません。徹底して人間が中心にいるのは、キリスト教的な文化圏の国々です。自然は人間にとって、書き割りのようなものです。西欧の近代主義がもはや意味を持たなくなってきたのが、今なのです。ハリウッド映画が、正義と悪を二分して、戦いという名のもとに、いまだに破壊行為の快感を描き続けているのは、困ったことだと思います。イスラムから仏教まで、アジア的な映像では、人間がそれほど万能ではないこと、自然の描写がそれ自体で説得力を持つことなどに、特徴があると思います。

Posted on

ハリキにしやがれ! Vol.3 ~アジア映画は 変わったか?~

その変化をひとことで言うのは大変難しい。第一、アジア映画について知らな過ぎるからです。1970年代は、ブルース・リーくらいしかなくて、それ以外では、インドのサタジット・レイなど欧米に認められた芸術映画くらいでした。

80年代以後、アジア映画のイメージを作ってきたのは、中国第5世代の監督たち、台湾ニューウェーブの旗手たち、香港勢、韓国のイム・グォンテクといった、個人的に傑出した才能の映画群でした。

その後、変わったといえば、これまで知られなかった国々が映画祭の常連になったことでしょう。イランやトルコ、マレーシアなど、新たな台風の目が生まれました。もうひとつ、かつてのアジアの監督たちは、欧米を手本に、母国の映画環境に反抗して、芸術的な作品を作ってきた知識人ではないかと思うのです。

さらに最近気がついたのは、作家主義的といいましょうか、芸術映画の衰退でしょう。その結果起こったのは、たとえば、レベルの高い職人監督の活躍ではないでしょうか。そのいい例が、ピンク映画から出てきた滝田洋二郎監督(「おくりびと」)のように、観客に支持され、しかもアカデミー賞を受賞するというケースです。むかし、「八仙飯店之人肉饅頭」で名をはせた香港のベテラン職人監督ハーマン・ヤウが、「セックスワーカー」のような素晴らしい作品を撮るというのも、その例です。

日本で見られるアジア映画は、さまざまなフィルターにかけられてきたほんの一部分であることを、忘れてはいけないと思います。アジア映画について、ぼくらはほとんど知らないと言ったほうがいいのです。

Posted on

ハリキにしやがれ! Vol.2 ~アジア映画の裾野が広がった!その理由は~

アジアといっても、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教など、さまざまな普遍宗教の影響下にある地域が含まれているわけです。これまでさほど注目されてこなかった地域で、優れた作品がつくられるようになると、台風の目が広大なアジアを次々に移動しているようで、すそ野が広がったように感じられるのかもしれません。

以前から知られている日中韓、台湾、香港など東アジア諸国や映画大国インドを除けば、アジアフォーカスでもおなじみのイラン映画が注目され、最近ではトルコ映画の力強い台頭や、マレーシア映画の新しい波が目立ってきました。さらに商業映画のマーケットが確立しているタイが、娯楽映画ばかりでなく、カンヌでパルム・ドールを受賞するほど質の高い前衛的な芸術映画で、俄然、表舞台に躍り出てきました。

またベトナムのダン・ニャット・ミンやインドネシアのリリ・リザ、スリランカのプラサンナ・ヴィターナゲー、フィリピンのブリヤンテ・メンドーサなど、コンスタントにすぐれた作品を発表し続けている監督がアジア各国に点在することも、アジア映画のすそ野が広がる要因かもしれません。

かつてはアジアでも、若い映画作家たちが徒党を組んで、自国の遅れた映画の改革を目指すという現象がありました。そういう状況は、中国の第5世代の監督たちや、台湾ニューウェーブなど、経済的に上向きになる社会状況を背景として、さまざまな国に生まれました。最近では、マレーシアにそういうニューウェーブの動きがあります。

昨年「水辺の物語」で来福したウー・ミンジンや、今年の「趙夫人の地獄鍋」のジェームス・リーなどは、そういうところから頭角を現しました。

Posted on

ハリキにしやがれ! Vol.1 ~映画祭の楽しみ方は?~

映画祭もお祭りですから、お祭りとして楽しんでいただければと思っています。お祭りとは何かと言いますと、ぼくらの生活は、だいたい労働と家庭の2つに分けられます。労働でも、家庭でも自分の役割は固定されています。逃げようがないですね。固定された役割と、義務の繰り返しだけでは、人間は生きていけない。

そのどちらでもない空間を作って、バランスを取ることを人間は知っています。逃げようのない固定された役割ではないゆるやかな空間。平等に参加できる空間が必要なのですね。娯楽、スポーツ…もうちょっと質にこだわると、音楽、文学、美術など芸術ということになります。オランダの歴史学者ホイジンガにならって、それらをすべて遊びと言ってもいいでしょう。歯車と歯車がうまく回るためには、隙間がなくてはならない。そのことも遊びと言いますが、生活が生活としてうまく回るためには、遊びが必要なのです。

ここまで言えば、お祭りが何であるかは、お分かりでしょう。労働でも、家庭生活でもない、もう一つの空間です。ですから、本来、そこで何をするかが重要なわけではありません。固定された日常の空間だけでは、ぼくらは狂ってしまうのです。日常から離れるために、お祭りには神の憑代として山車があるように、映画祭は、映画という山車をかついでいるのです。

それから先は、縁日気分で参加してもいいし、山車をかつぐ気分で参加してもいいし、いいかげんで結構ではないかと思います。肝心なことは、思い切って日常から離れることです。映画祭だけではなく、いろいろなお祭りを楽しむコツはそこにあると思います。

 

Posted on

ぜい肉一切なしの映像 「父、帰る」

冒頭は水中。汚れた海の中をカメラが進む。沈んだボートが見える。それを断ち切るように、海に飛び込む子どもたちの姿。兄のようにはできず、高い飛び込み台の上で怖気づく弟。人生という海の底知れなさを前にしたように。やがて、父と息子の緊張をはらんだドラマに引きこまれる。見終わって、しばらくして、ボートが何であったかに気づき、がく然とする。な、何という周到な伏線!

ロシアの39の新人アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「父、帰る」は、今年、屈指の1本(注:2004年当時)。北野武の「座頭市」がヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を取ったときの、金獅子賞である。人生から、意味や目的というロマンティックな目くらましをそぎ落としてとどうなるか。単純で、厳しく、謎のような現実だけが残る。ぜい肉が一切ない映像は、同郷の映像詩人タルコフスキー(母親が落ち着かなくタバコを吸うところは、タルコフスキーの「鏡」を思わせるが)というより、ブレッソンやアントニオーニに近い。

12年ぶりに、父親が帰ってくる。なぜ出て行ったのか、なぜ帰ってきたのか、どんな仕事をしているのか、すべてがなぞめく。兄弟は、本当の父親だろうかと半信半疑。父親は、ふたりの息子を誘って、釣りに行く。道中、長いものに巻かれる兄は従うが、がんこ者の弟は、かたくなに父を拒否する。強引に自分のやり方に従わせる父。弟は憎悪をつのらせていく。

3人だけで、これほど力強い描写が可能とは! 兄弟の性格の違いに、父親の謎のような行動が加わると、ほとんど神話的な世界。ボートもそうだが、何気ないシーン(子どもたちがはじめて父親を見るとき、彼はベッドで寝ている)が、後半で形を変えてくり返される。すると、さかのぼって、はじめの日常的なシーンが、象徴的な意味を帯びていく。なぞめいたエピソードが深いところで反響しあい、関係しあって、ひとつの動かしがたい運命を形成する。これが新人かというような、完璧な作品。

(2004. 11. 11)

 

Posted on

「2046」 胸に迫る「つかの間」の痛み






ウォン・カーウァイの映画は、物語としては限りなくゼロに近づこうとし、何かを凝視するような映像は、美しい。いいかえると、それは「つかの間」の性質である。彼にとって、生は永遠に続く「つかの間」であり、それに耐える痛みと悲しみだけを描こうとする。新作「2046」は、そんな映画である。

1963年のシンガポール、66年から69年にかけての香港を舞台にしている。が、出てくるのは、大きな歴史から切り離された「つかの間」の場所だけ。賭博場や酒場、主人公(トニー・レオン)が仮住まいする香港の小さなホテル。狭い部屋、ベッド、仕事机、廊下、階段、屋上だけを、ぼくらは見せられる。「つかの間」の暮らし、狭苦しい視野がすべて。それら全体を見晴らすショットは一度も登場しない。

主人公が書き綴る近未来小説の舞台も、「つかの間」の最たるもの、列車の中で進行する。また、酔いつぶれた主人公は、「つかの間」の乗り物、タクシーのなかで女性のひざに手を伸ばす。女性たちとの関係も、その場かぎり。借金を賭けで取り返してくれた、いつも左手に黒い手袋をした女賭博師(コン・リー)、情熱的な関係をもったはずの、ホテルの「2046」号室の水商売の女(チャン・ツィイー)、小説の代筆をしてくれたホテル支配人の娘(フェイ・ウォン)。

安定や定住などは、ない。定住するには、ホテルの支配人の娘のように、日本へ行って日本人(木村拓哉)と結婚するしかない。日本が結婚と定住をしめしているのは、おもしろい。

香港ばかりでなく、大都会は、だれにとっても「つかの間」の土地かもしれない。そして、ぼくらの生の感覚も、バーチャル化する生活環境によって、まちがいなく「つかの間」化しつつある。戻ってゆく場所は、もはや、ない。高速でチューブを突っ走る列車のように、時間のなかを疾走するほかない。永遠に引き延ばされた「つかの間」の悲しみが、ぼくらの胸を締めつける。

(2004.11.18)

 

Posted on

「LOVERS」張芸謀のポストモダン

前作「HERO」を見たとき、あのチャン・イーモウ(張芸謀)がなぜ、と首をひねった。その前の「至福のとき」で、何かが終わったことははっきりわかったのだが。

新作「LOVERS」。この監督にとって終わったのは、社会制度と個人の相克をリアリズムとして描くことではないか。もともとリアリズムの作家ではなかった彼は、あっさりモダンを見かぎり、ポストモダンに転向してしまった。強力な文化的記憶である武侠ものを枠組みとして、中国版「マトリックス」のごときものをめざした。そして、前作、今作と、きわめて質の高い商品を作り出すことに成功した。

続きを読む

LOVERS [DVD]

  • 販売元:レントラックジャパン( 2005-01-28 )
  • 時間:120 分
  • 2 枚組 ( DVD )
  • 定価:¥ 4,104
Posted on

父娘の愛情“直球勝負”で描く韓国映画 「7月32日」

韓国映画がこれほど日本で人気を得た理由は何か? 思うに、俳優の魅力がある。もうひとつには、純粋さがある。

純愛ばかりではない。残酷描写にしても、徹底して純粋な状態へ向かおうとする。その過剰なエネルギーの前には、あいまいな日本人はうろたえるしかない。そのうち、キムチのように、この刺激がたまらなくなる。

ピュアな状態を求める韓国ドラマの原型は、たとえば父娘の関係かもしれない。日本で最初にヒットした「風の丘を越えて」のパンソリの名人は、娘をシゴく。おまえの声には恨(ハン)がないと言って、盲目にしてまで芸を仕込む。

カンヌ映画祭でグランプリを取った「オールド・ボーイ」の衝撃的な父娘の近親相姦や、「グエルム 漢江の怪物」で、父親が怪物にさらわれた娘に注ぐ愛情にも、同じ系譜のにおいがある。

福岡が世界初公開となる(※2008年時点)本作も、過剰な父娘の愛情(愛憎でもある)を直球勝負で描いている。父親は殺し屋。牢獄に入れられ、残された幼い娘は売り飛ばされ娼妓になってしまう。父は別れた娘を捜しつづけ、娘は父を殺したいほど憎む。

この暗い愛憎が、デスペラードに渦巻いて、異様な迫力を生む。とくに、映画初出演とは思えない娘役のソン・ヘリムの圧倒的な魅力が爆発する。この重たさに耐えてこそ韓国映画ファン!

(2008.8.15 西日本新聞より)

Posted on