梁木靖弘の自由席

「2046」 胸に迫る「つかの間」の痛み






ウォン・カーウァイの映画は、物語としては限りなくゼロに近づこうとし、何かを凝視するような映像は、美しい。いいかえると、それは「つかの間」の性質である。彼にとって、生は永遠に続く「つかの間」であり、それに耐える痛みと悲しみだけを描こうとする。新作「2046」は、そんな映画である。

1963年のシンガポール、66年から69年にかけての香港を舞台にしている。が、出てくるのは、大きな歴史から切り離された「つかの間」の場所だけ。賭博場や酒場、主人公(トニー・レオン)が仮住まいする香港の小さなホテル。狭い部屋、ベッド、仕事机、廊下、階段、屋上だけを、ぼくらは見せられる。「つかの間」の暮らし、狭苦しい視野がすべて。それら全体を見晴らすショットは一度も登場しない。

主人公が書き綴る近未来小説の舞台も、「つかの間」の最たるもの、列車の中で進行する。また、酔いつぶれた主人公は、「つかの間」の乗り物、タクシーのなかで女性のひざに手を伸ばす。女性たちとの関係も、その場かぎり。借金を賭けで取り返してくれた、いつも左手に黒い手袋をした女賭博師(コン・リー)、情熱的な関係をもったはずの、ホテルの「2046」号室の水商売の女(チャン・ツィイー)、小説の代筆をしてくれたホテル支配人の娘(フェイ・ウォン)。

安定や定住などは、ない。定住するには、ホテルの支配人の娘のように、日本へ行って日本人(木村拓哉)と結婚するしかない。日本が結婚と定住をしめしているのは、おもしろい。

香港ばかりでなく、大都会は、だれにとっても「つかの間」の土地かもしれない。そして、ぼくらの生の感覚も、バーチャル化する生活環境によって、まちがいなく「つかの間」化しつつある。戻ってゆく場所は、もはや、ない。高速でチューブを突っ走る列車のように、時間のなかを疾走するほかない。永遠に引き延ばされた「つかの間」の悲しみが、ぼくらの胸を締めつける。

(2004.11.18)

 

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